じわじわと、春

まだまだ寒くて身体のこわばりは抜けないけれど、今年もようやく桜の季節がすぐそこまでやって来た。


桜の花には青空よりも薄曇りがよく似合う気がする。太陽光が強いと花の色を飛ばしてしまうから、淡墨色が背景の方がほのかな桜色が冴える。晴れの日は放っておいたって気持ちいいけれど、花の季節はそう思うことによって曇りの日の散歩の楽しみも増やしてみたりする。


何年か前に皆で見た、川べりの花吹雪を思い出す。あの日も曇りだった。

あの風、あの人の眼の表情。風も眼もたくさん物を言っていて、懐かしく愛おしかった。


この数年間を通して大事だったものを多く失ってきたが、案外拠り所がなくなってもやっていくぐらいの強さは持ち合わせているらしい。…違うかな、意識しない拠り所が幾つもあったということなのかもしれない。

最近はプリプリして辛いものばかり食べているけど(?)笑


どうあれ、春の陽射し、花の匂いに胸は弾む。長い冬を越せなかった人たちの分まで、私たちはきっとお祝いしよう。


赤で満ちる

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昨日週末のご褒美にお気に入りのジェラート屋さんへ。

フレーバーは苺のチーズケーキとなんとかニーナという葡萄のソルベでした(皮をつかわないから紫色じゃなく白くってすっきり!)

ここのジェラートはどれも濃厚でとっても美味しいのですが、それ以上に真っ赤な壁と鏡張りの空間が大好きでよく行きます。

エネルギッシュな赤色に包まれるとなんだか充電される気がするんだなあ。

(京都の方はどこかわかる方いるかな?)


晩秋から年始にかけては周りに赤色が増えていきます。

もみじの赤、サンタクロースの衣装の赤、お正月の紅白の赤、南天の実の赤…

身につけるものにも何となく赤を選びたくなってくるのは、私だけじゃないんじゃないかな。

そろそろ冷える季節になってきたので、こうした色の力も借りてきて、あたたまって過ごしたいものだと思います。

黄色いちょうちょと萩

帰り道、駅出口へ続く廊下を歩いていると、グレー1色の構内に似つかわしくない姿を見かけました。黄色いちょうちょがフラフラと飛んでいました。


こんなところにいてもじきに死ぬだろうと思い、捕まえて外に出せないかやってみましたが飛び回るためうまくいきません。

私に付いてきたら外に出られるよ、と念を送ってもみましたがそれも通じません、、

そこで自分の体を壁にして出口に誘導しようと試みました。これは少しうまくいきましたが、突如出口から吹き込んだ強風に煽られ、ちょうちょは元いた場所よりさらに奥へと舞い戻っていきました。

私ももう追いかける気力はなく、何となく寂しい気持ちでその場を後にしました。


あんなところにどこから来たんだろ。モンキチョウを見るのは春だよな。初秋で黄色いちょうちょ…

そこでふと思いあたりましたが、そういえば今はちょうど萩の花の季節です。京都に来てから知った秋の色ですが、梨木神社の萩の周りには黄色いちょうちょがいっぱい飛んでたっけ。

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(ここにはちょうちょ映っていませんね。2年前に撮った梨木神社の萩です)

濃いピンク色の花の周りに明るい黄色がひらひら舞ってとても綺麗でした。


構内の無機質なタイル貼りの上で生を終えるのであろうちょうちょの末路を想像して物悲しくなったわけですが、あれ、そもそも私は人の死はまだまともに悲しんだことがないのでは、と気がつきました。

生き抜いたことへの感嘆と、もう二度とその人が自分の人生に物理的に登場しないことへの不思議さに圧倒されて、涙は流れても、あれは悲しみとは別です。

死そのものが必ずしも悲しいのではなくて、でもひとりで死ぬのはとても怖くて悲しいんだよなあ、だからあのちょうちょが気にかかるんだわ、と思いました。


萩の花畑を仲間たちと飛び回っていたならば、ちょうちょの感じていた世界は豊かなものであったでしょうか。

まあどうでもいい願いだろうけど、何となく、そうでありますように。


週末にでも萩を観にいって、黄色いちょうちょたちも一緒に観てこようと思います。













パレスサイドホテル・ロビーコンサート

今晩は、チェロの友人の引退演奏ということで、御所南のパレスサイドホテルのロビー演奏を聴いてきました。


このロビー演奏は、大学入学の頃からよく聴きにいったので、通って7年目になります。

その間に、演奏者の世代交代も多く見てきました。


本日の曲目は、懐かしいものばかりでした。

チャイコフスキー弦楽四重奏曲第1番、1楽章。

こちらは2年少し前に、チェロの同期の女の子が卒業間際の最後の発表会で弾いていたことを思い出します。

4年間の苦楽を共にした仲間でした。

当時、その子の楽器がちょうど不具合で、私の楽器を借りて本番に臨みました。

私の楽器は大人しめでパワーに欠けますが、その子はなかなかに素敵な音色で弾いてくれて、私の楽器と相性が良いんだなと嬉しく思ったことを思い出します。

私はチェロが下手くそで、あまり楽器の持ち味を生かしてあげられていなかったので、上手に弾いてもらってうれしかったです。


2楽章は通称「アンダンカンタービレ」で親しまれる緩徐楽章で、こちらも色んなプレイヤーが弾くのを聴いてきました。

なかでも印象的だったのは、ちょうど6年だか7年前、ロビー演奏に通いだした頃に、当時の先輩がまさにそのホテルの同じ場所で披露した演奏でした。

ピチカートの響きが非常に澄んでいて、優しく温かい空気に会場が包まれていました。


そして、最後のアンコールはアンドレ・ギャニオンの『めぐり逢い』でした。

曲名が出た瞬間にどきりとしました。

これはまだ私が小さい頃、母親が「いつかあなたの結婚式に弾いてあげるね」と言ってくれた曲です。

その数年後に母親は眼を悪くしてピアノを弾くのを辞め、かつて母娘4人がレッスンを受けていた実家では今や誰も触る人がいなくなり、グランドピアノも引き払われました。


まだ手が小さくて音の跳躍が難しかった頃に、「大人の曲」として憧れ、母親の譜面を見よう見まねでさらった『めぐり逢い』。

今でもふと思い出した時に弾きますが、真面目に譜読みしたことはないために、クライマックスの、いちばん和音が動いて美しいフレーズだけが弾けません。


そのように、そしてそれだけではない、沢山の想い出が楽器の響きに乗って身体を駆け巡った夜でした。


追記

本日引退の友人についていえば、いつかのプロシア王という曲の、あるフレーズの歌い上げ方が忘れられません。ラズモフスキーの出だしなんかも良かったな。

空間掌握力のポテンシャル、半端ないです。

しかしどちらも何年前のことになるんだろ…















細胞たちのご主張

… 腹痛のため布団にへばりつく夜です。修論は無理くり出したゼ。ぐはー


さて、「3日坊主かも」と言いつつもそんなつもりはなかったのに、気がついたらひと月放置していたこのブログ…_(:3 」∠)_

書きたいことは山ほどあったのに、毎日寝落ちするほど忙しくしてしまっていました。

ようやくあれこれ落ち着いてきたので、先週末の演奏会について少し書きます。


fb上で何度かご案内しましたが、こちらの演奏会シリーズの運営をお手伝いさせて頂いてました。

http://www.music-dialogue.org

客席で聴いた前回の演奏会に魅せられて、またご縁もあって、微力ながらスタッフとして寄せてもらいました。

そして、関わるほどに、普段知り得ない世界を垣間見ることができ、刺激的で楽しかったのですが。

(アーティスト方の傍でサポートできること自体が喜びですが、異業種の同年代と集まれるし、京都のアッパークラスの方々etcと繋がりできたりするし)

ただ、仕事の合間を縫って活動するのはただでさえスタミナのない自分にとっては相当しんどいことでもあり。。

世界的なアーティストの集う舞台でMCをさせて頂くという畏れ多い機会を得ながらも、今回限りで運営は抜けさせてもらうのがよいかと、内心、思っていました(´Д` )


…ところが。

リハーサルを客席で聴いている時、しばらくぶりの感覚を体験してしまった…!

何かというと。


身体中の細胞がざわめくんですよね(笑)音楽のダイナミクスにあわせて。

比喩ではなく、文字通りざわざわします。頰にまで鳥肌が走っていって。

そして、反射的に涙が出てきて止まらなくなる(←せっかくMC用の化粧したのにw )。

 

感情が喚起されたわけじゃないから嬉しくも悲しくも、ましてや感極まってないのに、ただ涙が溢れる現象。…なんなんだ 笑


ただ、心よりももっと原始的な領域(安易に魂という言葉は使いたくありませんが、そのようなもの)が反応していることはわかりました。

太古の人類は感情を持たなかったと聞きます(「心」に該当する文字が遺跡から出てこない)。

おそらく、自分が古代人だったとしても、この演奏を聴いたら涙したのではないかと思いました。

美しいものに心打たれることは往々にしてありますが、心を介さずして深い癒しを受けるというのは不思議な体験ですね。


というわけで号泣して本番前にスッキリしちゃったのですが、このお蔭でMC緊張しないのではwと思ったら、ばっちりガチガチでした… ざんねん(T . T)


…とまあそれは置いといて、

思えば勤めだしてから、あれほど躍起になって練習していた楽器から離れ、聴くことすらずいぶん減ってなお、わりに無頓着でいられました。

楽器と音楽は幼い頃からあたり前にそばにありましたが、「好きなこと」、「娯楽」、「趣味」…どれにも該当しない気がしていて、なぜ自分は楽器を弾くのか、自問することもしばしばでした。


それでも今回、良い音を浴びたいというのはもはや生理的欲求だと再確認。細胞たちが「快」を訴えてきますからね。観念して志向するのが筋かなと思いました。

(そういえば、好きな人の声って身体に染み透るように感じる時があって、それに感覚似てますね!

あれも不思議現象ですが、声浴びてるだけで気持ちいいので、なんでもいいし適当に喋っといとくれってなります 笑)


結局音楽は自分にとって何っていまいち分かんないし追求するのも無意味かもしれないけれど、一生かけてでも知っていきたい謎、といま言うことに、嘘はなさそう。

あまりにも含まれている情報が多いので、それに耳を澄ませて聴き取りたい。

シリアスな曲だと人間の業なんかを描いてる感じがして、そうなるとこっちがタフでないとまともに向き合えないけどw(自我確立できてないと潰される感じ)

弾くのも聴くのも、総ての体験を通して、音世界の不思議を探求したいです。


そんなわけで、演奏会スタッフについても、楽器についても、懲りずに関わり続けていくのでしょう。

飽きる日が来るまでは。来ないかな 笑

そしてこれからも同志に恵まれたら嬉しいです(*^_^*)

















町医者

事故で捻挫した右足首の治療に、会社が紹介してくれた町医者に通っている。

ここのお医者さんは亀のような雰囲気のおじいさんで、最初に掛かった時には診察室に通された後、しばらくこちらを振り向きもせずに延々と別の患者さんのレントゲン写真を眺めてらっしゃったので、この医者大丈夫かなと思った。

で、ずり落ちた黒ぶち瓶底メガネで斜め45度に向き直り、上目遣いでこちらを凝視しながらゆっくり話す。

ニコリともせずに。

この医者ほんまに大丈夫かいな、と思ったところで、「では、足を台に置いて診せてください」と患部を触られたところで驚いた。


手がふにっふに!

なにこの手めっちゃ気持ちいい。

そして触り方がいちいち「…ぴとっ、ぴとっ、」といった感じで、何というかすごく優しい。

そうして(?)私はこのお医者さんにすっかり心を開き、軽い感動と共に古くさい医院を後にした。


それから何度か通院しているが、このおじいさん先生は相変わらず我関せずのスローテンポで、よく笑いをこらえきれずに困っている。

傑作だったのは看護師の奥様との連携プレー(湿布貼り)で、2人で四隅持ってよいしょーって湿布貼るってなんなの、、足首に普通サイズの湿布貼るだけだし!しかも大して上手く貼れてないし!

…誰かに心の声を伝えたかった(がんばって黙って見守りました)。


こういう人種、どこかで知ってるなあってなってすぐに思い当たった。

学生の頃、ド田舎で取材したおじいさん方からは時折同じような印象を受けていた。

会話がキャッチボールとして成立しない。質問の答えが返ってこないことも多く、基本的に喋りたいことしか喋らない。

それはボケているからではなく、私たちよりも自然に近いところで生きているから話法が違うだけなのだと思う。

これは研究データを取るには甚だ不便なのだけど(笑)、こういったおじいさん達のそばにいると安心した。

人間だけじゃなくて、岩とか植物とかの存在感と似たものを持っているから。


先のお医者さんはもちろん会話が成立しないということはないけれど、どこか人間離れしていることは共通していて、都会の中にもこういった方がいらっしゃることはちょっとした驚きだった。


人間くさいのも良いけれど人間ぽくないのもまた良いものだ。


電気治療は非常に暇で、事故の時あと1秒ぶん前に出ていたら、着地の打ち所が悪かったら死んでいてもおかしくなかったことを考えたりする。

きわどい場面だったことに対して恐怖も感慨もあまりないのだけれど、そういえば自分がまた事故に遭う夢と自分が車で人を跳ねる夢は見た。


しかし、車は信号無視で突っ込んできたのに、バンパーに弾かれた右足首以外ほぼ無傷ってすごいな。

私の運動神経からして、高校の体育で多少習ったくらいの柔道の受け身が咄嗟に出るはずないし(笑)

今は明確な夢や目標は特にないけれど、これからも生きてやることはきっとあるんだろう。


そんなこんなで今後もおじいちゃん先生に会うのを細やかな楽しみとして、渋々ながらもしばらくは件の町医者に通うつもりである。


可笑しい

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社前の花壇が元気です。

高瀬川沿いにありますが、この辺は土地柄のせいか行政があまり噛んでいないようで、カオス感が強いです。

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秋に社員皆で植えたものです。

花壇の土をトイレにしている野良猫と日々縄張り争いしてます。

土のおしっこくささにおののきながらも、苺が実をつけたので昨日いただきました。

(食べざるを得ない雰囲気だったし。。事務の女の子とギャーギャー騒ぎながら、流石によく洗った!)


お味の方は、思っていた以上に美味しかったです。いやはや、露地物やしな。

そういえば週明けの月曜は、食品事業の取材で近江舞子に露地いちごの苺狩りに行きます。お天気もちますように!


さて、桃の木や枯れていると思われていたブドウもいい感じに育っています。なお写真の奥の木はビワで、最近小さい実をつけています。

その昔、社長のお母様が捨てはった種が立派に育っているそうです。

このビワといえば、上司が昔、以前の上司からイヤイヤ実を取らされていたという話を時々聞きます。


春に咲く花々が終わってきたので、夏に向けてミニひまわりを買ってきて、と社長夫人から声を掛けられました。

買い出しに行って、それで昨日は2度目の植え付けでした。もちろんミニひまわりは入れましたが、上司と悪ノリしてロシア産巨大ヒマワリ(背丈2mくらいになる)も結構な数仕込んでしまったので、今から夏になってバレるのが怖いです。笑

若干社長夫人に心配されつつも、ホワイトコーンと大玉スイカも表に植えました。

つるが伸びて道の邪魔をしないよう、気をつけて面倒見たいと思います。


会社では可笑しいことが多くて日々噴き出しそうになるのを堪えています。

なんでかなあ。


昨日は皆に見守られて、はじめてのおつかいさながら、はじめてひとり運転して宇治のお客様のところに伺いましたが、早速営業カーの左後方をこすりました。

無事で帰ってきただけでオッケーと言われ、温かさにじーんとした次第です。


そんな感じで相変わらずどんくさいですが、自分や周りの皆の力を生かしていけるよう、元気でやっていきたいと思います。